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Title :中世後期畿内近国守護の研究
Authors :弓倉, 弘年
Publisher :新潟大学大学院現代社会文化研究科
Issue Date :Mar-2007
Description :本論文は、室町幕府管領であり河内・紀伊等の守護でもあった畠山氏を対象とした。畠山氏の家系を明確にし、河内・紀伊の支配体制を検討するとともに、内衆や奉公衆等の動向も加味して、守護の在り方や畿内・近国の様相を明らかにすることを目的とした。序章では、畠山氏の世襲分国である、紀伊・河内・越中の畠山氏に関する研究史を整理し、本論文の論点を示した。管領家畠山氏系図は、異同の多い諸系図類ではなく、本論文の成果をもとに作成した。第1部では、畠山氏の家督相続と紀伊の支配体制について論じた。第1章では畠山氏の当主交代について論じた。応仁の乱以降は、正守護か否かにかかわらず、義就流・政長流の当主交代を明確にすることを基本とし、両畠山氏の当主交代を明らかにした。第2章では、紀伊支配にかかわった守護代・奉行人等の検出を通して、紀伊の支配体制について論じた。「室町時代紀伊国守護・守護代等一覧」は、第1章・第2章の成果に基づいて作成した。第3章では某姓宣顕を例に、畠山氏の前に紀伊守護であった大内氏との間で、支配にかかわった人物に関係がないことを論じた。第4章では、応永25 年(1418)に発生した守護と熊野本宮との抗争を通して、守護の分国支配の脆弱さと、紀南の支配拠点南部について論じた。付論Ⅰでは、畠山満慶が満家の伯父ではなく、弟であることを論じた。付論Ⅱでは羽柴秀吉が紀伊を攻めた際の畠山式部太夫の人名比定について論じた。第2部では、畠山氏の分裂抗争の原因と、関係した内衆の動向、分国の状況について論じた。第1章では、畠山氏が義就流と政長流に分裂する原因が、畠山氏内部にあることについて論じた。嘉吉の変後に持国が一部近臣を重視した分国の支配体制をとり、従来の内衆を退けたことが、畠山氏分裂の原因であることを明らかにした。第2章では、畠山氏の紀伊における分裂抗争を、畠山義就と弥三郎・政長の時期について論じた。その際、奉公衆の湯河政春が、在地の理由により一貫して政長方を支持したことを明らかにし、応仁の乱における中央と地方との関係について論じた。第3章では、政長流の紀伊在国内衆である野辺氏について論じ、紀伊国人でないことを明らかにした。第3部では、守護畠山氏と、紀伊の奉公衆湯河氏・玉置氏・山本氏の関係について論じた。第1章では、山本氏が奉公衆に編成された時期、明応の政変後の湯河氏と山本氏の立場の違いについて論じた。明応の政変によって奉公衆の結合が崩壊したことを、紀伊においても明確にし、戦国期には山本氏が守護権力の一端を担っていた。
第2章では、明応の政変後における湯河氏の動向について論じた。湯河氏が畠山政長の嫡子尚順方として活動したことを明らかにし、紀南国人一揆説を否定した。第3章では、戦国期に至っても将軍直属の奉公衆であることを自負する湯河氏の立場について論じた。湯河氏は畠山氏権力に包括されたのではなく、湯河氏の河内出陣には将軍からの要請があった。第4部では、主に大永から天文年間にかけての、義就流と政長流の家系と権力について論じた。第1章では、天文年間に政長流の河内守護代であった遊佐長教の権力と、長教の暗殺後、安見宗房が台頭した背景について論じた。また、天文年間に至っても守護家の家督決定権は幕府が掌握していたが、守護代等内衆の支持がなければ権力を行使できないことも明らかにした。第2章では、錯綜していた天文年間の畠山播磨守の人名比定について論じ、関係を整理した。第3章では、享禄年間の畠山上総介の人名比定を行うとともに、義就流の河内守護代であった木沢長政の権力について論じた。第4章では、畠山義就以降の義就流畠山氏の家系について論じた。第5章では、天文年間に政長流と義就流の間で行われた河内半国体制について論じた。河内半国体制は、河内を南北に分割して支配するのではなく、義就流・政長流それぞれに守護職を認めるものであった。第5部では、遊佐長教全盛期から、畠山氏滅亡に至る時期の畠山氏と内衆の在り方について論じた。第1章では、天文年間から元亀年間に至る畠山氏の河内支配と、内衆の動向について論じた。永禄年間に安見宗房が台頭して遊佐同名となり、足利義昭上洛後は奉公衆となったことを明らかにし、遊佐氏の権力について論じた。第2章では、畠山氏が河内を失陥することとなった、永禄5年(1562)の河内教興寺合戦について、同時代の史料より、この合戦が単に三好・畠山の抗争でないことを論じた。第3章では、永禄から天正年間にかけての畠山氏内衆の在り方について、織田信長との関係を軸に論じた。畠山秋高が殺害され、足利義昭が畿内を去った状況下で、義昭派の河内守護代遊佐信教は重層的な支配体制を解消できず、旧秋高系内衆や根来寺が織田信長の家臣に組み込まれた。終章は、本論文のまとめとして、4つの観点から論じた。
新潟大学大学院現代社会文化研究科
平成19年3月22日
新大院博(文)乙第5号
Type Local :学位論文
Language :jpn
URI :http://hdl.handle.net/10191/5462
fullTextURL :http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/5462/1/2_0005.pdf
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Please use this identifier to cite or link to this item: http://hdl.handle.net/10191/5462